http://anond.hatelabo.jp/20070131010646


なんかわかる。


あたしも首都圏育ちでそこらの公立高校出身で実家から高校の延長で大学行って、
お昼ごはんは高校生の妹と同じ母親の手作り弁当携えて、
夜ごはんは家でおかあさんが作ってくれたのが待ってる連中にもーーのすごい嫉妬してると思う。


首都圏に出てきて、ひとりぐらしも大変で、しかもうちは家が遠いから尚更納得のしようがなくて。


なんでお前ら、そんな楽して生きてるんだ!?って思う。


そしてそれが「当たり前」「標準」ってされがちなことにすごく苛立つ。
「標準語」使ってるからって偉そうにすんじゃねーよお前ら、と軽く思う。
更には、彼らにとって「そうであること」があまりにも当たり前なので、あたしがそう感じているギャップや苦しみがまったく理解されない。キョトンとされてしまう。
しょうがない。そりゃしょうがない。お前らそういう環境で育ったんだもんな。わからんだろうよ。それが当たり前だったんだもんな。
とは、思うんだが。
狭い世界で生きてんじゃねーよ!甘えてんじゃねーよ!つまんねーんだよお前ら!!
と、どっかで思ってる。だからあたしの愚痴は主にそこになる。




また追記します。

出典、つーかオチ


たぶんこんだけじゃハァ?だろうからすんごい具体的に言うと、



「めちゃ2イケてるッ!」の「フジTV警察24時」の1月20日放送分で極楽トンボの加藤が山本圭一がメンバーから外れたことをいじられ、加藤がテレビで号泣したことをネタにされたのを見ていて、「それさえもネタにして笑い飛ばすのか」と思い(しかしそれさえも消費するのかって指摘は可能だね。いま考えると)、



彼らが「こち亀」の両津を意識した眉毛をつなげたメイク(?)をしているばかばかしさや、IKKOをネタにしたくっだらない下ネタギャグでオチをつけるのを目的とした構成を見てばかばかしーと思いながらもへらへら笑い、「タブーに挑戦する」姿勢だよなーと思い、



そういえばサクラ大戦のプロデューサーが『マルチ天国』ってラジオ番組について語ってたなーと過去ログをたどり→http://mixi.jp/view_diary.pl?id=312504976&owner_id=514373



前に『電波少年』や土屋プロデューサーについてWikipediaをあさったことを思い出し、



そんでカジ速で見つけたスレを見つけ出して(※免疫ないひと注意)→http://www.kajisoku.com/archives/eid990.html



新鋭のメディアの特性について考えたわけなんでした。

テレビから2ちゃんねるへ


バラエティは一般に「下品」だとか「くだらない」とか言われるじゃないですか。
あたしも、変なコスプレしたり伏字トークしたり下ネタに持ってったり、わざと相手のデリケートな部分を笑いにしたりするバラエティの感覚はあまり受け容れやすいものではなかったんですが。
この「神をも畏れない精神」って、現在の2ちゃんねるも持ってるものじゃないだろうかと思ったのです。
先日、VIPまとめサイトを見ていたら
キリスト「釣りでしたwwww」
っていうスレが載ってて。
そこではありとあらゆる宗教的権威が笑いものにされてて。
そこにふと「こんなん出来るの日本だけだよな。だ が そ れ が 良 い」というリアクションを見て、ずっとそれが印象に残っていました。
確かに。
権威を笑い飛ばすことにどういう意義があるのか、どうしてそこに意義を見出すのかは今ちょっと上手くまとまらないので触れませんが、それは必要な精神だと思う。
VIPのくだらなさをVipperは愛してるし、まとめるひともそこを見るひともまたそれを愛してるのだと思うんだよね。これがVIPヌクモリティ(違。
・・・すいません、野菜レイプとか結構すきです(笑。愛すべきばかばかしさ。



で、件のバラエティ番組を見ていたらそのことを思い出したわけです。
テレビ・ラジオの黎明期に番組制作に関わったことのあるプロデューサーさんの日記を見ていると、どうもテレビというのはかつてそういう存在だったんじゃないかと。
誰もがひっかかってる因襲、わけもなく囚われてるしきたり、意味のないコード、それらを笑い飛ばすという最強の方法でぶち壊すことを始めたのが「バラエティ」なのではないかと。
テレビ黎明期の革命的なプロデューサーや、実験的・名作的番組の情報を観ていると特にそう思う。
そう思うと大変に近代的なメディアですね。テレビって。
いや、もちろんそれだけで「近代的」なのではないけれど。もっとあるけど。



ただ、テレビが権威と化してきてるからね。
私達の世代からすれば、テレビは新しいメディアでも何でもないわけです。
そこでその精神はウェブに流れたのかなと。ちょっと思ったのでした。



あー勿体ないな、わたしこないだのレポートで狂歌とか狂文についてちゃんと勉強していれば、近世から続くこの庶民の批判精神についてもっと深い考察が出来たかもしれないのに(笑。



オタクを許容しない友人がバラエティもまた「程度が低い」って否定することをちょっとだけ思い出しました。

2chと喪男とジェンダー

2chまとめサイトを欠かさず見ている。
2chという場所は世間ではわかりやすいレッテルを貼られているようなのだが(「匿名」とか「危険」とか「チラ裏」とか言われてんのかな?)、よくわからない。
ただ私は、職人さんと呼ばれる人やガチで議論を交わしている板の存在は初期のウェブ文化とその可能性を象徴するものだと思っているし、見るに耐えない罵詈雑言があふれている板も現在の社会を見る上で欠かせないものだと思う。
「匿名」ということは「正直」であることだと思う。
罵詈雑言があふれるには、それなりの理由がある。
「名前」を背負っていては言えないことが、2chには表出する。今の世の中が抱えるストレスがそこからは見えるような気がしている。
例えば、喪男
つってもそんなに喪には詳しくない。一つだけ、夏の葬列というまとめサイトを見ているだけだ。
だけど、なんというか、自分が時間的・空間的・環境的・そして性別の制約を受けたものの考え方をしているのだとこれほどまでに思い知らされるサイトはなかった。
全然わからない。
同時代的・同世代的環境にある人々がこういう感情を抱いているなんて想像もしたことがなかった。
そこには「女」に対する不平・不満があふれてる。何か彼らなりの論理があるようだというのがわかってきたのは、最近のことだった。


そうして毎日そこを見ていて思うのは、まぁ薄々感じてはいたが、今の世の中で「男」として生きるのは大変なことなんだなと。
フェミに触れていて思うのは、やっぱフェミだとダメだと思うのだ。両性を含有したジェンダー学ではじめて、近代の性別役割分担思想は終わる。
そこに「男」はまだ到達してない。
「男」に求められるものが多すぎるからだ。
「男」が性別的に束縛されている場面が一体どれほどあるだろう?途方もない。
フェミを見てて時々、「それじゃダメなんだよ!」と思うのは、まだ「男は優遇されている」と思っているところだ。
どこをどう見て「優遇」だなんて思うんだ。彼らが受けている精神的・経済的プレッシャーがどんだけあると思ってんだ(働け、稼げ、家族サービスをしろ、趣味の玩具なんか買うな、派手な格好をするな、etc...)。
だからフェミは男に嫌われる。
「女」を無謬とし、「男」こそを断罪するから。
確かにフェミのもたらしたものは大きい。おかげで、「女」はあまり性別を意識せずに生きていけるようになったと思う。
だが、「男」はまだ性別に縛られざるを得ない。「責任」だとかいうとんでもなく重い性別役割分担を背負わされているからだ。
しかも、今の世間は未だ、男が自らそれを投げ出すことを良しとしない。「無責任」にされてしまうから。「女」が「いいよ、やんなくて」と言わなきゃ「ワガママ」であるかのような、まるで自分から止めるのは申し訳ないかのような空気が漂ってる。
しかし、初期のフェミもそうであった筈だと思うのだ。見たことないけど。「女」に期待されてた「役割」を「やってられっか!」と投げ出すには、それだけの社会的圧力を受けたはずなのだ。
そう考えると、フェミやウーマン・リブがある程度の成功を収めたのはとんでもないことなんだなと思う。まぁ、「女」的にはもうそれらの時代は終わったと思ってるんだが。
「男」にはまだそれを担ってくれるムーヴメントがない。
なんでだろうね?
忙しいからかな?
現在の「男」に期待されてる役割が二重三重に阻んでいるのかもしれない。例えばフェミやリヴは「主婦」に与えられた時間やコミュニティ(横の繋がり)を活用することができた。
だけど、現在の「男」が役割を投げ出すには、そのどちらもない。とりあえず毎日稼がなければならない、という束縛にがんじがらめにされている。
しかも稼がなきゃ食っていけないという切実なモチベーションがそこにある。それ以外のことなんて正直手が回らないだろう。
あと、フェミもリヴもアメリカ発だったというのは大きいかもしれない。欧米では「男」のための解放運動が起きにくい精神的土壌が存在しているような気もする。


ある時から、そうだな、第二次性徴がきた頃から、自分たちに対する世間の扱いが変わったな、と変な違和感を抱くようになった。
特に私は女子校で中高六年間を過ごしたので、共学の大学に入った瞬間にそれがいきなりあからさまになった気がする。
それまでは温室で雑草を育てるような女子校にいて、12歳の頃から時を止めていたのであまり気づかなかったし、感じなかった気がする。世間で言われてる「やっぱり女の子は〜」とか「恋をしよう!」とか「モテ」とか「オシャレ」とか、マジうぜぇと思ってた。
だから大学に入ったばかりの頃、「女の子」の荷物を「男の子」が持ってくれたり、ということにやたら反発を感じていた。
違和感はそれだけじゃなくて、もうなんか何もかもが違うんだよね。扱いが。視線から何から、もう存在そのものが「若い女の子」として規定されてしまって、こっちもそれが楽なもんだからそのまま引きずられてきた。
でも多分、それがダメなんだよな。
あたしはよくフェミを主張すんなら「女」が受ける優遇も拒否れよ?と思うんだが、フェミはそこが甘いんだよな。ってオレもだけど。
そして多分、それが喪の怨嗟の原因になっているんだと思う。
でもぶっちゃけ、無理もないと思わね?
「男」でも、喪の言う「イケメン」「チャラ男」「女に都合のいい奴」像に上手く自分を一致させられる連中は、逆に上手いこと性別役割分担を利用してるのかもしんないけど。


ただ昨日読んでて衝撃を受けた言葉があって、それがこれ(※性的表現注意)。

「女を神格化するな、物質として捉えろ。ただのまんこだ、割り切れ!」

あー、神格化してんのか、と。
神格化されちゃってんのオレたち、と。
そう、彼らどうも「女」には「大和撫子」であってほしい様で、性的なものに積極的に関わる「女」を憎悪しているように見えるのですが。
フェミが変えてくれた世の中に育った私たちに言わせれば、あたしらだって人間なんだから性欲ぐらいあったって良くね?、と当たり前のように思ってしまうんですが。
でも確かに、今の世の中が「若い女の子」に向ける羨望の視線は異常。
それが「神格化」を生んでしまうのかなと。


とりあえず、あたしに出来ることは、「若い女の子」に対する優遇を拒否することなんだろう。そこはジェンダーをかじろうとしてる人間として、しなきゃいけないことだと思う。
まぁ社会の中で完璧に遂行するわけにはいかないが、地道に頑張ろうかなとか思うわけです。孤立しそうだけど(笑。
でもそれは、むしろ「女」としての義務だろ!?
そりゃーしんどいけど。でも責任だよな、と思ったりもするわけです。
「男」による「男」のための「解放」なんてものが存在する余地があるとしても、彼らから見て「女」であるあたしには手伝えないしね。周囲の男女に布教することは出来るけど、何より「男」が“はいはい、まんこまんこ”で終わっちゃうだろうし(笑。
しかし、もしもそういうものが成立するとしたら本質的な部分は喪が担うんだろうな。というか、そういう革新的なことは現体制の中でやってける人間には担えないと思う。まず発想そのものがない。


それにしても思うのは、
女を神格化してそうな男子校出身の少年が、そういえば身内にいたなぁ・・・。
一緒にエロゲーやって仲良くしとこ(ぇ。

ガラスをめぐる文学的体験

嫌な予感がした。
傾くお盆。崩れ落ちるグラス。響き渡る破壊音。
ガッシャン――
そんな典型的な音をたてて、ワイングラスが大量に壊れた。
衝撃だった。
その後もしばらく、その音が耳から離れなかった。


グラスって、壊れるんだ


生まれて初めてガラスに接した時、母は「これは壊れやすいよ」「割れたらあぶないからね」といったことを前もって言ったと思う。
それを一生懸命インプットした幼い私は、恐る恐るそのガラスを扱ったんだと思う。
だけど、段々わかってくるじゃない。
そうそう簡単には壊れるもんじゃないってこと。
少々のことじゃ何ともならないってこと。
いつもいつでも「これは壊れるものなんだ」なんて意識してたら、日常の行動に支障をきたすじゃない。
そんなわけで、段々と、麻痺していくんだよね。
初期に抱いていた、畏れ。


忘れていた畏れが一気に覚醒して
しばらく怖くて仕方がなかった
というか、ガラスは「本当に」割れるものなんだということがいまいち信じられず、
何度も何度も反復していたような気がする
しばらくの間、私は「もう一度あのワイングラスを思い切り叩き割りたい」という衝動に苛まれた
もう一度、確かめたい
ガラスが本当に割れるんだということ
どんな風に、どんな音で、どうやって壊れるのか、確かめたかった



***



先日、バイト先でワイングラスの乗ったお盆をひっくり返しました。
忙しくて、バタバタしてて。大人数で団体のお客さんが帰って一息ついた後。疲れとともに、気が緩んでいく自分を抑え切れなくて。
そのままクローズの作業に取り掛かったんだけど、私ダメなんだよね。一個ずつ順番にしなけりゃ気がすまないの。
でも私まだまだ新人だから、それこそ順番とか間違えるわけで。何かの作業中に先輩に呼び止められて、別の作業を頼まれたんだよね。
でもその作業は途中で。それを途中でやめて次に移ったんだけど、前の作業の続きが気になって仕方なかった。
そんな中で引きおこした。ちょうど自信を失くしてた時だったから尚更応えた。


それにしても、多分こーいうのを「文学的体験」って言うんだろうなと思った。
明治の作家たちが細かな感覚や衝撃を執拗に書いているけど、あの気持ちがわかった気がした。
とりあえずこういう形でログしとく。

本題

ていうか別に直接的に「いじめ問題」の話は未だにする気がしないので、どちらかというとトピックは「それらを語るひとを観ていて思うこと」か。いま「直接的な『いじめ問題』論」に言及しようとしたんだけど、自分が特に関心もってないことに気づいた。
「学校」を出て2年、もう完全に切り離したあの世界について、別に語ることもない。もう私の問題ではない。外野は黙るに限る。
ただ、それらを論じるひとを見ていて思うのは、どうもここ最近、「やられたらやり返せ」もしくはそれ以上の論理を使うひとが多いんだなということ。
これとか。

ただ、純粋に俺の倫理観から言えば「怒り」しか浮かばない。

こんだけナメた事やられて停学かよ。

俺が校長なら、残りの出席日数を全て下半身素っ裸で登校させる。上半身とか、靴とかはばっちり制服着てるのにも関わらず。それで一日でも休んだり、一時間でも欠席したりしたら退学。かなり高度な羞恥罰だと思うのだが、どうだろう。

冗談で言っていると思われるだろう。

「実際にやれば『人権云々〜』言われるのは目に見えているから」というのが、これが冗談だと言われる理由の凡そだと推測する。

しかし、果たして他人の人権を無視した連中の人権を守る事が「健全」と言えるのだろうか。

イスラエルは、レバノンに自国民が拉致された事で開戦に踏み切った。

日本は何百人も拉致されたという事が発覚しているのにも関わらず、暢気に北朝鮮に援助を続けた。

果たしてどちらの国が「健全」なのか。

mixi日記に“オレならいじめの加害者をあーしてやるこーしてやる、まぁそれが出来ないからいじめられっ子はいじめられてしまうんだろうけど、いじめをする奴なんかそれ位してやっても良いだろ!!”って話を書いて、賛同のコメントがばーってついた友人もいたな。

やられたらやり返せっていうか、何?
良い表現が見つからない。

・・・ふぅん。

これに対してウェブのパブリックな場であまり多くを語る気にはならないのだけど。
世間で非国民だと認定されたひとは、とりあえず牢屋にぶちこまれて細菌感染した毛布にくるまって寝る社会がまた来るのかもね。
うへぇ、サヨク的発言だなこれ(笑。
しかしジャパニーズはさっすが「単一民族国家」だね。ブログが出てきてちょっとは変わると思ったんだけど、ホント面白いくらい「叩き」が一元化するね。
彼らの論調の勢いから言って、それ以上のことはしそうだしなー。
でも、なんだかんだ言って現代の若者は外面的には「優しい」から、いざこんなことしようと思ってもチキっちゃう気もする。



まぁ別に誰が何と書こうと何を思おうと勝手なんだけど、
私はとりあえずそんなに無辜でも無垢でも無罪でもないから、所謂「加害者」をめためたにする権利は持ってないという自己認識。
ていうか「加害者」を「加害者」として認定できるほどの立場に「他人」はいけないんじゃないかと思うし。それが出来るのは神の視点じゃないと無理。ギリギリのラインで「被害者」はその認定会議に出席する権利はあるんじゃないかと思うけど、「被害者」だって完璧でも完全でもないから。
結局、「いるとすれば神だけ」って結論。



もう一つ思うのは、実際の「いじめ」ってもっと複雑なものじゃなかったか?
「被害者が可哀想」で、「加害者が悪い」って簡単に決められるものだっただろーか。
都会のプレッシャーを抱えた小学校の中で、「被害者」と「加害者」は簡単に入れ替わったりしませんでしたか?
“死ぬ勇気があるなら加害者なんて半殺しにしてしまえ!”っていうひとが結構いるんだけど、多分本当にそれをやったらその「被害者」は確実に恐怖のボスとして学校に君臨すると思うんだ。そんで多分、やられた「加害者」はしばらく被差別階級に決定だね。
キャストが代わっただけ。所謂“いじめ”の構図から全く何も変わってないと思うんだが。それって「解決」か?
それにしてもこんなストーリー、既に重松清が書いてそうな気がする(笑。

どこか遠くへ
逃げたら楽になれるのかな
そんなわけ無いよね
どこにいたって私は私なんだから

Wait&See?リスク?

Wait&See?リスク?