こういう場所にこういうことを徒然と書くのが一番嫌いなことなのだけど。
特に今回のこの問題に関しては、何を言っても感情論か誰かのもっともらしい理屈のコピーくらいしかイマドキの大学生は喋らないので、もう口を挟むこと自体不毛だと思っていたのだけど。
・・・所謂「いじめ問題」についてです。

と、ここまで振っておいてまだ「あぁやだやだ、不毛だな。」と思う気持ちを抑えきれないのでもうしばらく言い訳。
喧しい議論を聞くにつけ、そこから判ることは少なくとも「現在」の「この土地」の住人が、この問題に関して何ら基本的合意を持てていないということだけだと思う。
そこに加わること自体がより一層のカオス化を促進する気がして、不毛だと思うのですよ。
友達がもっともらしい顔してmixi日記に「正論」のつもりで書いてることが、驚異的なまでに偏ってたりね。
あぁやだやだ、青い大学生がくだらねぇ口挟んでんじゃねぇよって思っちゃうから、私も黙ってることにしたんだけど。なんかとりあえず周囲が出尽くして収束したみたいなんで、くだらねぇ口をチラシの裏にでもつらつらと。

消費社会世代

先日、ある大物(といっても名前聞いてもわかんないと思うけど)とお話をする機会がありました。
彼は(たぶん)50代で、「教養」のある方なのですが。
お話していて、「最近の若者は幼い」という結論に持っていこうとする傾向にふと首をかしげてしまいました。

こないだ国文学の授業で「子どもというのはそもそもその定義からして“わけがわからない”ものだ」と言っていたけど。
だとすれば、「幼い」というのはつまり、「わけがわからない」ということじゃないだろうか。
私は「最近の若者」という言葉の定義には含まれながらも、それを対象としてあげることが多い人間で(でもこれは「最近の若者」にはよく見られることなのかもね)、
内部から彼らを見ていて、私は決して「未発達」とか「幼稚」とは思わないんだよね。
その形容詞はなんか違う気がする。
じゃぁ何て言うのかって考えた時に、全てを「時代が違うんだよ」に帰してしまおうとする私もまだまだ青いんだと思うけど。


私は桐野夏生の『リアルワールド』で、女子高生が自分たちの世代を幼い頃から消費社会にさらされ続けてきたと評していたのにすごく影響をうけていて。
・・・そういうことなんだよな、と思う。
小学校の頃から私たちは「消費者」として扱われ、
校門の前では学習塾の勧誘、
電話を取れば消費動向を探るためのアンケート、
夜道を歩けば性的「商品」但しタダ。
――そうやって扱われてきた。
新宿のキャッチのひどいこと。一言でも返事したら終わり。
桐野作品の中で語り手は、“誰もが欲しがる「女子高生」の消費動向を、タダで欲しがる奴が群がってくる”みたいな言い方をしてたけど。
油断してたら食われる。
うかうかしてたら商品化され、消費者化され、消費社会の中に取り込まれてしまう。
そんな社会の中で育ってきた私たちに、「自分たち」と同じ育ち方を要求する方が馬鹿げてる。
知らないひとから電話かかってきたら有無を言わさず切れ、と教え
キャッチセールスなんかに返事をするな、と教え
学校に行くのでさえ、隊列を組んで逸脱が許されない環境で育てたのは誰だ。
・・・別に弾劾するつもりはない。ただ私たちはそういう社会の中で育ってきた。
小学校での力関係は、おもちゃの高級具合がものを言った。
中学に上がれば、誰もがウォークマンを持っていた。
電車通学に欠かせないよね。あの殺人的な満員電車の中で、サラリーマンだってみんな聴いてるもんね。
そういう社会じゃん。私たちが育ってきたのって。

結局、「教育問題」なんて、対処療法でぐちゃぐちゃ言っても無駄だと思うんだよね。
だってこれは、社会の構造的な問題なんだから。



でも正直、「多文化」で「グローバル」で、共通認識なんて最初からある筈もない世界で生き抜いていけるのは、こんな社会で育ってきた私たちの世代じゃないかという気がしている。
こないだ10歳年上のウェブ友達とケンカしたんだけど、すれ違いの原因を「文化背景も環境も違いすぎる」って嘆いてた。
悪いとは思ったんだけど、笑っちゃった。
そんなん当たり前じゃん。
一体どうしてそんなことが、私とあなたが繋がるのに障害になると思うんだろう?
「文化背景も環境も」“同じ”人間なんて誰ひとりとしていないのに。他人はもとより、家族だって不可能。
でもだからこそ、「私たち」はお互いのコミュニケーションの中で「共通認識」をつくりあげ、共有していくんだろ?それが「繋がり」じゃないのか。
それとも、「文化背景も環境も」共有しないと無理なくらいの一体感がなければ、「繋がり」とみなしてくれないんだろうか。

他人にそんなことを求めるのが可能だったのが、私の生まれてない頃のこの国だったのかも。
と、最近よく思うのだけど、違うかもね。
まぁこれは永遠にわかんないよね。生まれてない時代のことは推察するより仕方がないから。

マスメディアという媒体

放送研究会の合宿に行ってきて得た雑感。
いかにしてこのコミュニティに入っていくかまだ全くつかめず、しんどい思いもしたこたしたんだが、とりあえず成すべきことはただ一つだった。


作品を、作れ。


役職を逃したのなら何か作れ。
何か作ることでジョイントしていくしかない。



基本的にインタビュイーが得意な私。
技術的なダメ出しは出来ても、能動的に何かを伝える動機をもたない。
自分が何かを表明し、喚起させるということは、
すなわち誰かの思考を不自由にすることだからだ。
多かれ少なかれ、私の価値観を押し付けるということだからだ。
私は自由でないことを好まない。
他人にとって私が不自由を強いる存在でもありたくない。


だけど。
折角、今の私には表現媒体がある。
そのための機材も揃ってる。
後はやるだけなら、やってみようじゃんか。
マスメディアという媒体で、どこまで「表現」できるか。
あたしの思考に、染めてやろうじゃないか。
それは確かにモダニズム
責任を取らず、ただ垂れ流しにされる媒体だろう。
そりゃポストモダニティを志向する者として、最終的に「ポストモダンX」形式の作品が作れたら良い。だけど、それがどんなものかわからない。


考えろ。
今の私には創作意欲がある。
それが何よりも味方。


ポストモダニティを志向する以上、モダニズム的な情報伝達はすべきでないと思った。
つまり、あたしが「押し付けたくない」と思うのなら、その「押し付けたくない」という考え方自体も「押し付ける」べきではない、ということ。
だけど、世界はまだまだモダニティ。
ならば、あたしが今夢中になってる本と同様、モダニズムの技法でポストモダニティを表現してみようじゃないか。
今の世の中に求められてることは、恐らくそれなんだろう。


とりあえずやれる限りのことは尽くして、
一切の妥協をせずに、
PVに挑戦してみようか。
「やりたいことをやれ」
それがこのサークルのコンセプトなら、
あたしもいつまでも自分を抑えてないで、
作品でくらい、あたしを放出したら良い。


追記

ビデオ練番をたくさん見たからか、テレビの見方が変わった。
今までテレビは批判すべき対象、現象を切り取ったもの。構成者のステレオタイプによって再構成された似非の「現実」「物語」に過ぎなかった。
しかしだからといって、どういう風に作れば良いのかわかってないことも知っていた。
“だからといってどうしろという訳ではない、ただテレビはそういうメディアだから。”
固定概念を利用しなければ「作品」は成り立たない気はしていた。


自分が作り手になることを考えると、途端にテレビの見方が変わった。
何か意図したものがあるのなら、それが自然に伝わらなければ意味がない。
一つ一つのテロップも、その存在理由を考え始めた。
恐らく編集者は、これをどんな字体で、どんな色で、どこまでを文字化してテロップにするか、多かれ少なかれ考えたのだろう。
それらをじっと観察して、見る。
今はまだわからないけど、多分たくさん見ることは、今の私に必要なのだと思った。


再び追記

構成を考えながらテレビ観ると、疲れるね。
しかしこうしてつらつらチャンネルを回すに、今まで「無価値」と思ってスルーしてきたトーク番組と旅番組は結構見れることがわかった。
その場にいる人間同士の関係性の中で、会話が引き出されていく。
そしてそれを再構成する。これは結構面白い。
鬱陶しいだけだと思っていたバラエティも、よく観れば結構凝った作りなのがわかる。
面白いな、一体どんだけの労力をかけてこの番組を作ったんだろう。
ちょっと新たな視点が開拓されました。

放送について

今年放研で再デビューを図ったり、いま日テレでバイトをしていてつらつら思うこと。
テレビの向こう側というのは案外そこらへんのつなぎ合わせである。
セットはよく見ればハリボテで、パネルを立てて作ったうちの舞台とそう変わりはしない代物。
安定性や見た目の繕い度はそりゃ素人仕事よりかなりクオリティが高いが、疲れた時に体を預けるには不安が付きまとう。
しかしこの裏のむき出しの木の板に「○○ブース、上手」なんてマジックで殴り書いてあることをテレビのこちら側のひとは知らない。映らないからだ。
イベントの方々で流されている映像もよく見れば発泡スチロールにTVを埋め込んであるだけで、イベントが終わればリモコン持ってきて消したりする。また、人気ドラマの主演俳優からのメッセージで映りこむ背景は、よく見ればすぐ傍の会議室の壁にそのポスターを貼っただけだったりもする。
放研で映像作品をいくつか見るようになっても思ったのだが、現実は切り取られると現実感を失うのだと思う。
見知った学校内のなじみ深い建物の壁を背景に映像を撮ったり、すぐそこら辺でドラマめいたものを撮影しても、画面にして見るとそれはある程度だがしかし確実に「テレビの向こう側」なのである。
自分の声が電話を通すと妙な気分になるように、旧知のものもファインダーを通せばそれは何か異質なものへと変貌をとげる。
それはそもそもメディアというものが持つ性質なのかもしれない。
しかし機械によるファインダーと主観によるファインダーは少し性質が異なるように思う。
文章という媒体(=メディア)は主観によるファインダーであろう。それは、主観に「共感」可能な時はあまりファインダーの存在を意識することがないし、そうでない場合は別の視点による物の見方に感心したりする。
しかし機械によるそれは必ず「違和感」を伴う。自分の目を通しているのに、自分の視点ではないという違和感。撮影者のみならず、機械自身の「手」(=限界)によって切り取られた対象物。それは人間の誰も見ることが出来ない画(え)である。
主観によるファインダーは「違和感」を生じにくい分、共感させる力が大きい。それはすなわち、いわゆる「洗脳」と呼ばれるものが可能になる素地となっているともいえる。

セットや既にそこにある対象物だけの話でなく、テレビ業界、否、放送業界というのはその人的資源、能力活用についても「凝らない」存在であるように思われる。
もちろん、物的な必要量が圧倒的に多いからだ。必然である。
だが、少々の効率の悪さは人海戦術でカバーする。パフォーマンスに関しては一発勝負。放映してしまえば「終わり」・・・そんな放送業界の姿を見ていると、「ライヴ」であることを尊ぶ「演劇」よりも余程「一発勝負」であるように思われる。
「演劇」は「凝る」。
同じものを何度も何度も練習し、身に着けるまで徹底させる。
放送はそれを必要としない。というより、そんな時間がない。だから、その場で生じた粗は個人の能力によって埋め合わせることを期待する。
私が今働いているイベントブースも、完全に個人の資質に依存している。足りないところは個人の機転で補う。失敗したら仕方がない。
そういう場所なのだと思う。
だから、放送が求める人材はとにかく機転が利いて、咄嗟の埋め合わせが出来る人物。「司会者」という職業が存在する理由を、私はいま初めて知った気がする。

ポップでファニーな小説たち

友人の話を聞いていて、どうやら世の中には私の思っていたのと違う種類の「オタク」がいるらしいと気づいた。
しかし彼らもまた「オタク」の代表ともされる存在であり、テンプレートの一つである。私は現在仮に彼らを「オタク」と呼び、今までそう呼んでいた存在を「ヲタク」と定義することにした。
「オタク」と「ヲタク」の違いは、乱暴な断定をすれば“創造的か否か”、ということになるだろう。
オタクは消費主体である。
世間に疎いタイプの引きこもり体質である。
つまりオタクは、与えられたサブカルチャーによって欲望をかきたてられ、その世界の中で充足し、その外部を拒絶する。
つまり簡単に言うと、エロゲーの女の子に「ハァハァ」し、そんな女の子を夢見、世界がゲーム世界と同質化することを望む。自己批判から逃避し、自己の理想と異なる「現実」を否定する。
かなり自分勝手に分類すればそういうことである。
これは思春期の男子が多かれ少なかれ陥りやすい状況であるが、それが固定化してしまったのがオタクであるとする。
ちなみに女子でここに該当するのが「腐女子」であろう。ただし、「腐女子」のカルチャーとして、与えられた世界よりも自らが作った世界の方が「理想」的であることを知っているため、自分で世界を作り出そうとする傾向にある。それは消費主体であると同時に供給の側に回っているという現象を生む。
(追記:「腐れ」は男子同性愛を扱ったものを愛するオタクのことであってオタク女子の全てが腐れとは限らないらしい。やおいには興味を示さずゲームばっかしてる女子を知っているが、確かに彼女は「腐女子」とは言いがたい。ただし、私個人の身近にサンプルが少ないため、オタク女子の心性がオタク男子と同じかどうかは不明である。よって上記に含まれないものとしたい。)
対して、私がここで「ヲタク」と定義した、つまり今までオタクと呼んでいた存在は、一日中2chの前に張り込みをし、そこの秩序を形成する一部となっている人々である。これは個人の区別を私がつけていないため、総体としての存在とする。
彼らは世間では誰も言わずに済ませている論理を突きつけ、専門家顔負けの知識量でもって「知ったかぶり」を論破する。時には共同してコンテンツの開発に挑み、時には共同して巨大掲示板の自由と利益を守ろうとする。
彼らは論理をダウンロードした「オタク」とは異なって自らの論理を持ち、その場所における論理と折衝させつつやっている。かなり乱暴であるが、そういった人々がいるのは確かであるように思われる。


友人と話していて思ったのは、「オタク」こそが「虚構と現実の区別がつかない」人々であろうということだ。
最近の「若者」が「不可解な事件」を起こす度に「大人たち」はまるで救いを求めるかのように毎度この論理に逃げ込むが、虚構と現実の区別がつかない人は現実で事件を起こしたりしないものだ。何故なら、本当に虚構と現実がミックスしていれば、虚構で満足していればそれで良いからである。
逆に言えば、現実に「現実感」を求めるのは、虚構との区別がついているからだ。虚構で人を殺したことはあっても、それは現実ではないとわかっている人だ。リセットできないということがどういうことか、それを知りたいというだけのことだ。
それで人を殺すひとの気持ちはわからないでもない、と個人的には思う。


真に「虚構と現実の区別」がついてない「オタク」と呼ばれる人々は、資本主義が続くかぎり今後しばらく温存され続けるのだろうと思う。何故なら彼らは虚構を摂取するために消費をし続けなければならない存在だし、その多くは虚構の維持にお金を惜しまない傾向にある。そしてマーケティング戦略上、読みやすく無視できない層といえるからだ。




真面目に書こうとするとしんどいので、好き勝手書くことにしました。
公平性とか考えながら書いてたらすすまないので。
色々と飛躍とかあるかもしんないけど、ネット上のコンテンツのほとんどがそうであるように、ここもまた「便所の落書き」ですので。批判はお待ちしてますが非難は知りません。




インスピレーションを受けた参考テキスト。

<ぼくたちが「若者」だった頃〉というのは、要するに80年代のことを指すに違いないとして、軽くスルーされてしまっているけれども、ここで注意したいのは、その〈「おたく」「新人類」のはしりの世代〉が、〈いや、そんなこと言われても、まんがやゲームの中の「現実」と、自分たちが靴底がくっついている「現実」の区別ぐらいつくよ〉と心の中で思えたのに対して、まあごく一部の学生に限ってなのだろうが、若い世代が〈自分が自分であること、自分と社会とのつながりがわからないのは〉〈現実感が希薄化してしまったからではないのですか〉という疑問をつい口にしてしまう、そのような構図が顕在化していることである。
人生という憂鬱のためのアーカイヴズ

上野千鶴子『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』

家族を容れるハコ 家族を超えるハコ

家族を容れるハコ 家族を超えるハコ

予想に反して、面白かった。
何気に上野千鶴子の著作を読むのは初だ。間接的には多大な影響を受けているのに。
その発端はこれ↓。
東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ
私がフェミニズムを知ったかぶりする原因がこれ。社会学というものと出会ったのがこれ。学問というものを薄々嗅ぎ取ったのもこれ。


こういう本と出会ったのは久しぶりだ。こういう本が読みたかった。
どういう本かというと、近代を相対的なものと見做し、現在をポストモダンへの移行期と規定している本。
私が日頃は一生懸命に説明しているそれらを当然のように超えて、その上での問題点を論じている。
それでこそ面白い。私が知りたいのはそこなんだ。
軽くついて行けない部分もあったけど、だからこそ勉強するのだし、だからこそ考える。地盤が脆弱では仕方がないが、足元ばかり固めていても仕方がない。
私が今のゼミにいて不安を感じるのはそういうことだ。常に足元について議論しているような気がする。

大学内の「ジェンダーフォーラム」という場所でこの本を借りたのだが、同時に借りた本にこれがある。

母性愛神話の罠

母性愛神話の罠

最初はふうんと思って読み進めていたのだが、同じことばかり言ってるので終盤は段々飽きてきた。
同じことばかり言うのは文献によくあることで、必ずしも悪いことだとは思わないが、如何せん視点が狭いのである。
大日向の主張を――乱暴だが――要約すると「母性は本能ではない。子どもに愛を注いで育ててあげるのは当然のことだが、その多大な負担を母親一人に押し付ければ母親が限界をきたすのも当然のことである」となる。
だが、専業主婦が育児ノイローゼに陥るメカニズムに対する詳察が欠けていて物足りないし、企業社会に対する提言も女性の立場のみを取り入れていて一方的にすぎるように思う。
ここに大日向の限界がある。
つまり、育児をする母親たちの現場と向き合ってきた、対処療法的な視点であるということ。構造的な問題に迫っていないのだ。
だから彼女は気付かない。自分の文章が親たちに「愛情」を強要する結果になっているということ。近代的な「子ども」観に囚われておりそれを客観化できていないということに。
彼女はそれを当然と思っているのだから、気付こうにも気付けないのだろう。

そこへ来ると上野千鶴子は時に「過激」「ラディカル」と言われるだけあって明快なものだ。

家族とは、「家を共同している人びと」という定義以上でも以下でもない(p.16)

私が求めていたのは刷り込まれた固定観念に囚われない、この徹底したニュートラルな思考である。
正直、上野の過激さは私にはわからない。この本でさえ「上野千鶴子の毒舌もおかしい」と評していたひと*1がいたが、読んでいる時は全くそんなことは思わなかった。
フェミニズムは牙を必要とする。相手を思いやってやる余裕も、そんな義務さえない。
そんな世界に、私も慣れてきたのかもしれない。

[社会学][個人史]

この本を読んで私が感じたのは、個人的なことで恐縮だが――私の両親は、住宅についてかなり先見の明があったのではないだろうかということだった。
父は広島市の郊外にマイホームを持つにあたり、「洪水があっても沈まない高さ、地震で倒壊してもテントが張れる土地、食料を得られる庭」を条件としたという。
また、当時は型どおりの間取りしかパターンが無かったものを、自分達の描く家族のライフスタイルに沿って間取りを設計するよう要求した、とこれは母の言である。このことは正にこの本でとりあげられているnLDK(n=家族の数マイナス1)の問題と直結する。
結局そのマイホームに私達が核家族として暮らすことはなかったのでどのようなプランだったのかは不明だが、20年前の彼らは何をヴィジョンに描いていたのだろう。興味のあるところである*2

更に、8年暮らした大阪のマンションも画期的だった。
これは「集合住宅」であるという点で正にこのテキストのトピックたり得るのだが、よくある直方体タイプ*3でも、囲いタイプ*4でもない。
かなり説明し辛いのだが、とにかく画一的なカタチではない。小学生だった私はテトリスのブロックを組み合わせたようだ*5と思っていたのだが、組み合わせたところであんな形にはならないだろう。
真ん中に中庭があるが、それを1号室から4号室までが囲んでおり、5号室と6号室は北側に突き出している。また、それぞれの部屋は思い思いの方向に向かってベランダが突き出しており、各戸ごとのシルエットを形成している*6
私の住んでいた5号室は3LDKで、玄関が廊下と垂直に接している。左に行けば両親の部屋で、右に行けばLD。LDから西側に二つの部屋に通じており、東側はそのままKとなっている。



と、このあと放置。
また続きを書くときが来る、かもしれない。

*1:http://mixi.jp/view_item.pl?id=12239 下から7件目のレビュー「男と女の平均寿命の差は約6年。しかも男は年下の妻を持つ傾向がある。男の年下好きは、妻に自分の介護をさせるための本能的な陰謀だ。とかいい放つあたりぶっとんでてかっこいい。」::そもそも私は、彼女の「決め付け」をあながち「ぶっとんでいる」とも思わない。何故なら、「肉体が規範化されるというのが近代のこわさ(p.147)」と上野が言うように、意図するとしないとに関わらず、男性という存在がそういった志向を担ってきたことは構造的に明らかにされてきたと考えるからだ。

*2:間取りをオリジナルデザインしたとは言え、彼らはnLDKの呪縛からは逃れられていなかったのではないかという気がしている。何故なら、複合家族・二世帯住宅として使用されている現在の「その家」には正に「夫婦の寝室」というものがあり、ダブルベッドが鎮座しているからである。「寝る」という言葉の2つの意味しか果たさないその部屋の様相は、子ども心にも違和感があったように思う。ちなみに、現在は週に2回、父が単身赴任先から帰省する時をのぞいて、ダブルベッドでは母が一人で寝ている。

*3:まっすぐ伸びた廊下に、各住居の扉が一直線に並んでいる

*4:地上階に中庭があり、それをぐるっと囲む形でドアが並んでいる

*5:参照::http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.29.5.882N34.47.22.815&MT=%C2%E7%BA%E5%C9%DC%CB%AD%C3%E6%BB%D4%C5%EC%CB%AD%C3%E6%C4%AE%A3%B6%C3%FA%CC%DC%A3%B1%A3%B7&ZM=12

*6:参照::http://f.hatena.ne.jp/chauchau1987/20060623150542