消費社会世代

先日、ある大物(といっても名前聞いてもわかんないと思うけど)とお話をする機会がありました。
彼は(たぶん)50代で、「教養」のある方なのですが。
お話していて、「最近の若者は幼い」という結論に持っていこうとする傾向にふと首をかしげてしまいました。

こないだ国文学の授業で「子どもというのはそもそもその定義からして“わけがわからない”ものだ」と言っていたけど。
だとすれば、「幼い」というのはつまり、「わけがわからない」ということじゃないだろうか。
私は「最近の若者」という言葉の定義には含まれながらも、それを対象としてあげることが多い人間で(でもこれは「最近の若者」にはよく見られることなのかもね)、
内部から彼らを見ていて、私は決して「未発達」とか「幼稚」とは思わないんだよね。
その形容詞はなんか違う気がする。
じゃぁ何て言うのかって考えた時に、全てを「時代が違うんだよ」に帰してしまおうとする私もまだまだ青いんだと思うけど。


私は桐野夏生の『リアルワールド』で、女子高生が自分たちの世代を幼い頃から消費社会にさらされ続けてきたと評していたのにすごく影響をうけていて。
・・・そういうことなんだよな、と思う。
小学校の頃から私たちは「消費者」として扱われ、
校門の前では学習塾の勧誘、
電話を取れば消費動向を探るためのアンケート、
夜道を歩けば性的「商品」但しタダ。
――そうやって扱われてきた。
新宿のキャッチのひどいこと。一言でも返事したら終わり。
桐野作品の中で語り手は、“誰もが欲しがる「女子高生」の消費動向を、タダで欲しがる奴が群がってくる”みたいな言い方をしてたけど。
油断してたら食われる。
うかうかしてたら商品化され、消費者化され、消費社会の中に取り込まれてしまう。
そんな社会の中で育ってきた私たちに、「自分たち」と同じ育ち方を要求する方が馬鹿げてる。
知らないひとから電話かかってきたら有無を言わさず切れ、と教え
キャッチセールスなんかに返事をするな、と教え
学校に行くのでさえ、隊列を組んで逸脱が許されない環境で育てたのは誰だ。
・・・別に弾劾するつもりはない。ただ私たちはそういう社会の中で育ってきた。
小学校での力関係は、おもちゃの高級具合がものを言った。
中学に上がれば、誰もがウォークマンを持っていた。
電車通学に欠かせないよね。あの殺人的な満員電車の中で、サラリーマンだってみんな聴いてるもんね。
そういう社会じゃん。私たちが育ってきたのって。

結局、「教育問題」なんて、対処療法でぐちゃぐちゃ言っても無駄だと思うんだよね。
だってこれは、社会の構造的な問題なんだから。



でも正直、「多文化」で「グローバル」で、共通認識なんて最初からある筈もない世界で生き抜いていけるのは、こんな社会で育ってきた私たちの世代じゃないかという気がしている。
こないだ10歳年上のウェブ友達とケンカしたんだけど、すれ違いの原因を「文化背景も環境も違いすぎる」って嘆いてた。
悪いとは思ったんだけど、笑っちゃった。
そんなん当たり前じゃん。
一体どうしてそんなことが、私とあなたが繋がるのに障害になると思うんだろう?
「文化背景も環境も」“同じ”人間なんて誰ひとりとしていないのに。他人はもとより、家族だって不可能。
でもだからこそ、「私たち」はお互いのコミュニケーションの中で「共通認識」をつくりあげ、共有していくんだろ?それが「繋がり」じゃないのか。
それとも、「文化背景も環境も」共有しないと無理なくらいの一体感がなければ、「繋がり」とみなしてくれないんだろうか。

他人にそんなことを求めるのが可能だったのが、私の生まれてない頃のこの国だったのかも。
と、最近よく思うのだけど、違うかもね。
まぁこれは永遠にわかんないよね。生まれてない時代のことは推察するより仕方がないから。