マスメディアという媒体

放送研究会の合宿に行ってきて得た雑感。
いかにしてこのコミュニティに入っていくかまだ全くつかめず、しんどい思いもしたこたしたんだが、とりあえず成すべきことはただ一つだった。


作品を、作れ。


役職を逃したのなら何か作れ。
何か作ることでジョイントしていくしかない。



基本的にインタビュイーが得意な私。
技術的なダメ出しは出来ても、能動的に何かを伝える動機をもたない。
自分が何かを表明し、喚起させるということは、
すなわち誰かの思考を不自由にすることだからだ。
多かれ少なかれ、私の価値観を押し付けるということだからだ。
私は自由でないことを好まない。
他人にとって私が不自由を強いる存在でもありたくない。


だけど。
折角、今の私には表現媒体がある。
そのための機材も揃ってる。
後はやるだけなら、やってみようじゃんか。
マスメディアという媒体で、どこまで「表現」できるか。
あたしの思考に、染めてやろうじゃないか。
それは確かにモダニズム
責任を取らず、ただ垂れ流しにされる媒体だろう。
そりゃポストモダニティを志向する者として、最終的に「ポストモダンX」形式の作品が作れたら良い。だけど、それがどんなものかわからない。


考えろ。
今の私には創作意欲がある。
それが何よりも味方。


ポストモダニティを志向する以上、モダニズム的な情報伝達はすべきでないと思った。
つまり、あたしが「押し付けたくない」と思うのなら、その「押し付けたくない」という考え方自体も「押し付ける」べきではない、ということ。
だけど、世界はまだまだモダニティ。
ならば、あたしが今夢中になってる本と同様、モダニズムの技法でポストモダニティを表現してみようじゃないか。
今の世の中に求められてることは、恐らくそれなんだろう。


とりあえずやれる限りのことは尽くして、
一切の妥協をせずに、
PVに挑戦してみようか。
「やりたいことをやれ」
それがこのサークルのコンセプトなら、
あたしもいつまでも自分を抑えてないで、
作品でくらい、あたしを放出したら良い。


追記

ビデオ練番をたくさん見たからか、テレビの見方が変わった。
今までテレビは批判すべき対象、現象を切り取ったもの。構成者のステレオタイプによって再構成された似非の「現実」「物語」に過ぎなかった。
しかしだからといって、どういう風に作れば良いのかわかってないことも知っていた。
“だからといってどうしろという訳ではない、ただテレビはそういうメディアだから。”
固定概念を利用しなければ「作品」は成り立たない気はしていた。


自分が作り手になることを考えると、途端にテレビの見方が変わった。
何か意図したものがあるのなら、それが自然に伝わらなければ意味がない。
一つ一つのテロップも、その存在理由を考え始めた。
恐らく編集者は、これをどんな字体で、どんな色で、どこまでを文字化してテロップにするか、多かれ少なかれ考えたのだろう。
それらをじっと観察して、見る。
今はまだわからないけど、多分たくさん見ることは、今の私に必要なのだと思った。


再び追記

構成を考えながらテレビ観ると、疲れるね。
しかしこうしてつらつらチャンネルを回すに、今まで「無価値」と思ってスルーしてきたトーク番組と旅番組は結構見れることがわかった。
その場にいる人間同士の関係性の中で、会話が引き出されていく。
そしてそれを再構成する。これは結構面白い。
鬱陶しいだけだと思っていたバラエティも、よく観れば結構凝った作りなのがわかる。
面白いな、一体どんだけの労力をかけてこの番組を作ったんだろう。
ちょっと新たな視点が開拓されました。