電車内で物を食べるということ
旅好き  2007年1月26日 21:36

先日、新聞の投稿欄に「電車内で物を食べるなんてマナー違反だ!」という意見が載っていました。
その方によると、
「女性が電車に乗るなり、おにぎりを食べ始めて呆れてしまった。またこういう人もいた・・云々・・」で、とにかく電車では一切物を食べてくれるな、という感じの文章でした。
きっとその女性は、ゆっくり食事する時間がなかったんでしょうね。
もちろんあまりに臭いの強い物(カレーなど)を食べるのは考えものですが、そこまで目クジラ立てることかなーと思いました。
そして、これはたぶん鈍行列車内の地元民の出来事で、新幹線内の旅行者だったら許されていたのでしょう。
私は多少ならいいんじゃない?と思いますが、みなさんはどうですか?
駅弁だってあるんだし・・・

読売新聞「発言小町」

700件近いレスのうち540(27ページ目)まで読んでいたら夜が明けそうだよ。

ここに私がレスをつけさせてもらえるなら、

字数制限もなしに、可能な限り粗が少ない、私なりに最高級の丁寧な主張を書かせていただけるなら、

なんて書こうかな。



「具体的な議論の焦点からはかなり離れた意見なので、嫌な方はスルーしてください。

まず最初に、私は20歳の小娘です。
私の意見にこの自己紹介がつくと、「今時の若い女性がなんか自己中心的なことを言いだしたよ」と途端にくくられてしまう気がしてしまうんですが、敢えて自己紹介してみました(笑)。
(あ、すいません。現代っ子なもので「(笑)」を使うことによる手っ取り早い婉曲の効果を無視することができません。この表現がお嫌いで見るだけでとても冷静には読めない!という方は読まれないことをお勧めします)
実態は確かに「最近の若い女性」なのでしょうし、私の考え方もきっとこのカテゴリーの枠をそれほど外したものではないであろうと思うので、否定はしません。ですが、そうやってひとくくりにされて非難されることには抵抗があることだけは申し上げておきます。

さて、のっけから横道にそれました。
私は電車の中で飲食をします。ペットボトル飲料、カロリーメイト、おにぎり、パンまでなら経験があります。
それはもう真にだらしのない理由でして、自分の生活をきちんと運営できていないからです。
そこで大変申し訳ないのですが、最大限の気は使って飲食をさせていただいています。
ちなみに通学には首都圏の地下鉄を利用しており、郊外から都心を突っ切って50分ほど乗車しています。通勤ラッシュ時は外しています。ボックスシートはありません。立って居るひとはおらず、7人がけにどんなに多くても座っているのは3人という状態です。

私のこのような理由に対し、「たった5分早く起きることがどうして出来ないの?」との書き込みをいくつか見かけました。
本当にその通りだと思います。あなたには簡単に出来ることなんですよね。
それが出来ないのは、ひとえに私が社会的に未熟でだらしがないからです。ご迷惑なんですよね、こんな理由で電車内飲食を堂々としても良いなんて思ってません。本当にごめんなさい。
ただ、実際に朝ごはんを口にせずに電車に乗るという事態に直面した時、「一食ぐらい抜いても死なない」と食べないのか、「白い目を浴びながら食事をする」をするのか、どちらかを選択しなければならない時、
私の価値判断は「それでも食事をする」方にやや傾きます。
これはおそらく、「美意識」だとか「空間」に対する意識、食事に関する「穢れ」の観念、そして「食育」などの影響によるものだと思います。
私は、食事をすること「それ自体」がみっともないことだとは思っていません。
人間に必要な行為を恥ずかしがることはないと思っています。
「欲望を他人に見せることは醜悪」とおっしゃる方がいらっしゃいましたが、私の個人的な考えを言わせていただけるなら、その他人も「欲望」をもっています。存在しているものをまるでなかったかのように振舞うことは自己欺瞞だと考えます。「欲望」があることは正直に認めるべきだと考えます。(これは本論からは逸れた個人的な考えです)
ただし、そのことが他人の「欲望」と衝突する時はよく考えなければいけません。自分の「欲望」が必ずしもかなえられるものではないとも思っています。私のすぐ近くに座っている誰かが、例えば「電車の中で飲食をする人間なんて目の端にも入れたくない!不愉快!!」と感じ、「私の視界から出て行ってくれ!!」という「欲求」をお持ちになられるのであれば、私とその方はお互いの衝突した「欲望」の妥協点を見出さなければなりません。
ただし、電車内でこういった込み入った話をまったくの初対面の方と議論するのは大変難しいので、大抵は不愉快に思いながらも我慢なさるか、席を移動されるという自らの譲歩によって知らないうちに「妥協点」を提示していただいています。
また、その他に「注意する」「怒鳴る」などといった方策を取られる方もいらっしゃるでしょう。都会の電車内というのは見ず知らずでまったく異なった多様な人間が集合してしまう場所ですので、これくらいしか取る手段がないのが現実だと思います。
ただし、特に「怒鳴る」という手段が初対面の他人に対して平和で友好的な妥協点を見出す効果は相当に小さいと思われるので、こういった方法論に対して容認派が「受け容れ難い」と感じている部分はあるようです。(サラリーマンが怒鳴っていましたという書き込みが1件ありましたよね)
私も、おそらく現実に電車内で怒鳴られたらびっくりしたり申し訳なく思ったり居たたまれなくなったりすることもあるでしょうが、多少は不快にも感じると思います。おそらく怒鳴りつけられる側は「自分の価値観に基づいて絶対に許せない」からこそ、「相手を怒鳴っても良い」と思い、「相手の 方 が 悪い」からと考えて「一方的」に怒鳴られるのでしょう。
ですが、こちらがたとえ「一方的に悪」だとしてもいきなり怒鳴られればやはりショックですし理不尽に思ってしまうと思います。
それで、「こういう方法はお互いの不愉快が不愉快を呼ぶだけなので、お互い寛容に」というご意見が出てきたのではないでしょうか。私は相手がどれほど「悪」かろうと、「怒鳴りつける」のはコミュニケーションとして適切ではないと考えますので、これは電車内飲食の善悪の問題ではなく、方法論の問題であると考えます。
おそらく容認派でこのように主張される方は、「善悪はともかくもっと他の良い妥協点の見つけ方があるでしょうに」というご意見なのではないかと推測します。

次に、理由のひとつにあげた「食育」のことをお話します。
私は義務教育・高等教育を通じて「栄養補助食品は身体にあまり良いものではない」と教えられてきました。
どれだけ数値的に栄養素が満たされようと、栄養補助食品だけの食事は身体に不調をきたしやすい。どんなにサプリメントカロリーメイトで補おうと、生の食材からつくった食事なしには健康の基礎はつくられない、というふうに認識しています。
なので、食事をするのにカロリーメイトとおにぎりのどちらかを選べと言われたら迷わずおにぎりを取ります。コンビニおにぎりとて保存料が入っていることに変わりはありませんが、それでも合成調味料だけでつくられた食品ではありません。兎にも角にも本物のお米を使っているわけです。
実は、否定派の方がこのことをまったく考慮に入れていらっしゃらないことに私はいささか不思議な思いがしました。「どうして栄養補助食品があるのに車内でわざわざおにぎりを食べるの?」という書き込みもいくつか拝見したように思います。「どうしてより健康的な食品があるのにどちらかといえば非健康的な方の食品を選択しなくてはいけないの?」と感じてしまいます。
まぁ、朝きちんと家で食事をすることが出来ないような人間はそもそも健康などではなく、他人に迷惑をかけてする食事に自分の健康を気遣う権利などないというお考えなのかもしれません。もちろん、そのような価値観をお持ちなのでしたら人それぞれですから否定はしません。
ですが、「私」はそのような価値観を持ってはいません。現実に今、朝食を食べずに電車に乗るという時に、なるべく迷惑をかけずに、しかし自分にとって「なるべく」良いものを食べるという妥協点を探したいと思います。
そこは「美意識」の差なのかもしれません。私は「箸などとお皿を必要とする」パスタや汁物ならともかく、そうでない食べ物に対してあまり違いを感じていません。カロリーメイト>おにぎりというこの図式が感覚的にはよくわかりません。おそらくは、カロリーメイトはクッキー等の「軽食」の延長で、おにぎりは「食事」だという感覚をお持ちなのだと思いますが、私にとってはおにぎりも「軽食」ですので何とも言えません・・・。
私のカロリーメイトに対する「健康的でない」という抵抗感と電車の中でカロリーメイトではなくおにぎりを食べる抵抗感を天秤にかけると、どちらかといえばカロリーメイトに対する抵抗感の方が大きいです。私の中ではカロリーメイトとおにぎりの優劣は逆なのです。
(ちなみに、電車内でおにぎりを食べる場合は海苔がまかれていないタイプの丸いおにぎりを選択します。一度、三角形の海苔のまかれたおにぎりを食べたらやはり粉がひらひら舞って周囲にご迷惑をかけると思ったので、以来チャーハンおむすびや赤飯、鶏五目などを選んでいます)

他人の迷惑より自分の健康を取るのかと言われればそれまでです。自己中心的なのかもしれません。ですが、自分の中のカロリーメイトに対する抵抗感は拭うことが出来ませんし、それを否定することは誰にもできないはずです。ですが同時に、電車内飲食に対する抵抗感をお持ちの方のその気持ちを否定することも出来ませんので、「丸いおにぎりでも許せない!何が何でもカロリーメイト以外ダメ!!」という方がいらっしゃいましたらお伝えいただきたいと思います。

私が否定派の方にどうしても抵抗を感じてしまうのは「電車内飲食は大多数が嫌だと思っている」「嫌なのが常識。恥を知れ」「カロリーメイト>おにぎりなのが当然」という風な意識がちらほらと見受けられるからです。
何が当然かは、誰にも決められません。
そして本当にあなたの価値観が「大多数」かも、誰にもわかりません。
統計調査をすればある程度は信憑性のあるデータが揃いますが、それもサンプルの時・地域・年齢・調査方法によって異なってくるでしょう。
否定派の方々が「日本の素晴らしい美意識」に対してプライドを持っていらっしゃるのはとてもよく伝わります。プライドがあるというのは素敵なことです。
ですが、その価値観と相容れないからといって「恥を知れ」「お里が知れる」「育ちが悪い」「親の顔がみたい」などと言われるのは、とても傷つきます。
私にだってプライドがあります。大切な故郷があります。そして愛する家族がいます。
あなたの理想とする価値観や家庭ではないかもしれませんが、自分なりに私を育ててくれた親に対してとても感謝しています。
それを、一つのカテゴリが異なるからといって、私の親を侮辱するのはやめていただけないでしょうか。
価値観が異なる人間は、尊厳を尊重していただくことはできないのでしょうか。
「誰もそこまで言ってない」とおっしゃる方は多いと思います。けれど、「親の顔がみたい」「呆れ果てた」「可哀想」と見下される所以が、私達にあるとは思えないのです。
否定派の方が重要視される「空間」の概念(「レストランは「食べる場所」だからOK、外で立ったまま・歩きながらの飲食は「神聖」な食を汚す、ましてや狭くて密室的環境の電車なんて以っての外」)はおそらく江戸時代後期の国学以降の概念でしょうし、食事する姿を「みっともない」と庶民たちが考えるようになったのは明治以降と考えられます。あなた達がその価値観を信じるのは自由ですが、ひとつの価値観なんていくらでも相対化できるのです。
違う人間なのですから、価値観が異なるのは当然ではないのでしょうか。




あー、私にありがちな文章パターン。勢いに任せて書くと大体こうなるんだよね。
最初は順番に丁寧にやってるんだけどね、段々本性見えてきちゃうの(笑。
結局これも、最後の「見下される所以はない」っていうことだけだもんね。本当に言いたかったこと。
しかしその頃にはもう自分の思考に呑まれてるからあんまり説得力のある文章書けなくなってるんだよな。いきなりもうどーんと結論きちゃう。そしてその繰り返し。
どうやっても、何度考えても、自分の中では自分の答しか頭に浮かんでこない状態になってるからもう無駄なんだよね。
論理的文章には向いてませんが、個人的に書いてる分には盛り上がるしまぁ良っかって感じです(笑。


ちなみに、この記事のレスの雑感だけど、
「絶対否定派」「基本否定派」「容認派」・・・ってこれは記事で何人かがまとめてくれた通りで、
更にこういった分類やまとめを行う「大局派」が全体を眺めてるって印象を受けました。
そんで、まぁ大体「大局派」の意見が個人的にはもっともうなずけるんだけど、
自分の立場である「容認派」の意見はいまいち迷走してる感じがするのよね。
ひたすら自分の事情を説明してごめんなさい、許してくださいって言うひとや、
繰り返し繰り返し「地方と都会」っていう構図を持ち出してくるひと。
(このひとたちが一番「文化」と「価値観」の相違っていうトピックの核心に迫れると思ったんだけど、結局本質的な指摘はあまりなく。。。ただ単純に地域の情景を描写して「私は抵抗ない。だからお前も認めろ」になってる。これじゃ議論になってる都会の通勤電車ラッシュ外のケースに全然焦点があわない)
あとは他の電車内マナーを持ち出してくるひとや、「絶対否定派」がなーんか癪に障るので(気持ちはわかる)「じゃお前、そのほかの場面ではどうなんだよ!?」って的外れの指摘をするひとばかり。
議論だけ見ていると全体的に「否定派」のほうがよくまとまった意見をのべているし、多少感情的でもきちんとレスできている印象が強い。
私の主張論理からするとどうみても納得いかないのは否定派なのに。
否定派が「どうして否定するか」を語っているのに対し容認派は「その否定の仕方がなんかムカつく!!オレ達の存在認めろよ、他に言い方あるんじゃねーの?」ってのが基本だから、まぁ噛みあわないのは当然なんだけど。
否定派は色々頭から決め付けすぎだけど、似たような「日本の美意識」っていう大きな物語を共有してるからさ、感覚も論理も似ていてお互いで共感しあいやすいのだと思う。それが結果的に団結を生みやすいよねって話。
そーすっと、尚更「自分達は多数派だ」って思って、しかもそれを強みに感じちゃうんだろうなー。価値観は一つであるべきだから多数派から選ばれるべきだって。
私はそうは考えない。価値観はたくさんあって良いしあるべきだから、だから「実害」「迷惑」という観点から最低限のルール作りをすべきだっていう議論になるんだ。「感性」じゃなくて。


あーあ、夜が明けちゃったよー