放送について

今年放研で再デビューを図ったり、いま日テレでバイトをしていてつらつら思うこと。
テレビの向こう側というのは案外そこらへんのつなぎ合わせである。
セットはよく見ればハリボテで、パネルを立てて作ったうちの舞台とそう変わりはしない代物。
安定性や見た目の繕い度はそりゃ素人仕事よりかなりクオリティが高いが、疲れた時に体を預けるには不安が付きまとう。
しかしこの裏のむき出しの木の板に「○○ブース、上手」なんてマジックで殴り書いてあることをテレビのこちら側のひとは知らない。映らないからだ。
イベントの方々で流されている映像もよく見れば発泡スチロールにTVを埋め込んであるだけで、イベントが終わればリモコン持ってきて消したりする。また、人気ドラマの主演俳優からのメッセージで映りこむ背景は、よく見ればすぐ傍の会議室の壁にそのポスターを貼っただけだったりもする。
放研で映像作品をいくつか見るようになっても思ったのだが、現実は切り取られると現実感を失うのだと思う。
見知った学校内のなじみ深い建物の壁を背景に映像を撮ったり、すぐそこら辺でドラマめいたものを撮影しても、画面にして見るとそれはある程度だがしかし確実に「テレビの向こう側」なのである。
自分の声が電話を通すと妙な気分になるように、旧知のものもファインダーを通せばそれは何か異質なものへと変貌をとげる。
それはそもそもメディアというものが持つ性質なのかもしれない。
しかし機械によるファインダーと主観によるファインダーは少し性質が異なるように思う。
文章という媒体(=メディア)は主観によるファインダーであろう。それは、主観に「共感」可能な時はあまりファインダーの存在を意識することがないし、そうでない場合は別の視点による物の見方に感心したりする。
しかし機械によるそれは必ず「違和感」を伴う。自分の目を通しているのに、自分の視点ではないという違和感。撮影者のみならず、機械自身の「手」(=限界)によって切り取られた対象物。それは人間の誰も見ることが出来ない画(え)である。
主観によるファインダーは「違和感」を生じにくい分、共感させる力が大きい。それはすなわち、いわゆる「洗脳」と呼ばれるものが可能になる素地となっているともいえる。

セットや既にそこにある対象物だけの話でなく、テレビ業界、否、放送業界というのはその人的資源、能力活用についても「凝らない」存在であるように思われる。
もちろん、物的な必要量が圧倒的に多いからだ。必然である。
だが、少々の効率の悪さは人海戦術でカバーする。パフォーマンスに関しては一発勝負。放映してしまえば「終わり」・・・そんな放送業界の姿を見ていると、「ライヴ」であることを尊ぶ「演劇」よりも余程「一発勝負」であるように思われる。
「演劇」は「凝る」。
同じものを何度も何度も練習し、身に着けるまで徹底させる。
放送はそれを必要としない。というより、そんな時間がない。だから、その場で生じた粗は個人の能力によって埋め合わせることを期待する。
私が今働いているイベントブースも、完全に個人の資質に依存している。足りないところは個人の機転で補う。失敗したら仕方がない。
そういう場所なのだと思う。
だから、放送が求める人材はとにかく機転が利いて、咄嗟の埋め合わせが出来る人物。「司会者」という職業が存在する理由を、私はいま初めて知った気がする。