ポップでファニーな小説たち

友人の話を聞いていて、どうやら世の中には私の思っていたのと違う種類の「オタク」がいるらしいと気づいた。
しかし彼らもまた「オタク」の代表ともされる存在であり、テンプレートの一つである。私は現在仮に彼らを「オタク」と呼び、今までそう呼んでいた存在を「ヲタク」と定義することにした。
「オタク」と「ヲタク」の違いは、乱暴な断定をすれば“創造的か否か”、ということになるだろう。
オタクは消費主体である。
世間に疎いタイプの引きこもり体質である。
つまりオタクは、与えられたサブカルチャーによって欲望をかきたてられ、その世界の中で充足し、その外部を拒絶する。
つまり簡単に言うと、エロゲーの女の子に「ハァハァ」し、そんな女の子を夢見、世界がゲーム世界と同質化することを望む。自己批判から逃避し、自己の理想と異なる「現実」を否定する。
かなり自分勝手に分類すればそういうことである。
これは思春期の男子が多かれ少なかれ陥りやすい状況であるが、それが固定化してしまったのがオタクであるとする。
ちなみに女子でここに該当するのが「腐女子」であろう。ただし、「腐女子」のカルチャーとして、与えられた世界よりも自らが作った世界の方が「理想」的であることを知っているため、自分で世界を作り出そうとする傾向にある。それは消費主体であると同時に供給の側に回っているという現象を生む。
(追記:「腐れ」は男子同性愛を扱ったものを愛するオタクのことであってオタク女子の全てが腐れとは限らないらしい。やおいには興味を示さずゲームばっかしてる女子を知っているが、確かに彼女は「腐女子」とは言いがたい。ただし、私個人の身近にサンプルが少ないため、オタク女子の心性がオタク男子と同じかどうかは不明である。よって上記に含まれないものとしたい。)
対して、私がここで「ヲタク」と定義した、つまり今までオタクと呼んでいた存在は、一日中2chの前に張り込みをし、そこの秩序を形成する一部となっている人々である。これは個人の区別を私がつけていないため、総体としての存在とする。
彼らは世間では誰も言わずに済ませている論理を突きつけ、専門家顔負けの知識量でもって「知ったかぶり」を論破する。時には共同してコンテンツの開発に挑み、時には共同して巨大掲示板の自由と利益を守ろうとする。
彼らは論理をダウンロードした「オタク」とは異なって自らの論理を持ち、その場所における論理と折衝させつつやっている。かなり乱暴であるが、そういった人々がいるのは確かであるように思われる。


友人と話していて思ったのは、「オタク」こそが「虚構と現実の区別がつかない」人々であろうということだ。
最近の「若者」が「不可解な事件」を起こす度に「大人たち」はまるで救いを求めるかのように毎度この論理に逃げ込むが、虚構と現実の区別がつかない人は現実で事件を起こしたりしないものだ。何故なら、本当に虚構と現実がミックスしていれば、虚構で満足していればそれで良いからである。
逆に言えば、現実に「現実感」を求めるのは、虚構との区別がついているからだ。虚構で人を殺したことはあっても、それは現実ではないとわかっている人だ。リセットできないということがどういうことか、それを知りたいというだけのことだ。
それで人を殺すひとの気持ちはわからないでもない、と個人的には思う。


真に「虚構と現実の区別」がついてない「オタク」と呼ばれる人々は、資本主義が続くかぎり今後しばらく温存され続けるのだろうと思う。何故なら彼らは虚構を摂取するために消費をし続けなければならない存在だし、その多くは虚構の維持にお金を惜しまない傾向にある。そしてマーケティング戦略上、読みやすく無視できない層といえるからだ。




真面目に書こうとするとしんどいので、好き勝手書くことにしました。
公平性とか考えながら書いてたらすすまないので。
色々と飛躍とかあるかもしんないけど、ネット上のコンテンツのほとんどがそうであるように、ここもまた「便所の落書き」ですので。批判はお待ちしてますが非難は知りません。




インスピレーションを受けた参考テキスト。

<ぼくたちが「若者」だった頃〉というのは、要するに80年代のことを指すに違いないとして、軽くスルーされてしまっているけれども、ここで注意したいのは、その〈「おたく」「新人類」のはしりの世代〉が、〈いや、そんなこと言われても、まんがやゲームの中の「現実」と、自分たちが靴底がくっついている「現実」の区別ぐらいつくよ〉と心の中で思えたのに対して、まあごく一部の学生に限ってなのだろうが、若い世代が〈自分が自分であること、自分と社会とのつながりがわからないのは〉〈現実感が希薄化してしまったからではないのですか〉という疑問をつい口にしてしまう、そのような構図が顕在化していることである。
人生という憂鬱のためのアーカイヴズ