レビューに関する考察


どう考えても現実逃避であるが、現実逃避でないと私は文章が書けないらしい。

さて、昨夜のNHK大河ドラマである。
このドラマはもう最初から色々と思うところあって、観方が原作と全く異なるにも関わらずこの夫婦を取り上げる意味を見出せなかったり、端々に挿入された近代的価値観がとにかく気に入らなかったりしたのだが、最近は織田家のドラマが豪華なのでそればかり見ることにした。で、そこらへんの事情をこの場に書き散らそうかと思ったのだが、某巨大掲示板で思いを同じくする人々の書き込みを読んだら、なんだか落ち着いてしまったのである。
そこで思ったのは、レビューや“語り”というものは、一人だからこそアウトプットしたくなるのではないかということだ。

少なくとも「書く」ということはそれなりのエネルギーと時間を必要とする。それを突き動かす原動力の中に、自分なりのオリジナリティを放出したいという欲求が含まれてはいないか。よく使われる言葉なら自己表現欲求であろうか。
勿論、誰かと共有したい、誰かのレビューを読んだからこそ触発されて(「私も!」)書きたくなったというケースも多々あろう。それでどこかで読んだ焼き直しになったり、ありふれたレビューとなったものはネット上に腐るほど転がっている。
だが、それは結果論であっておそらく本人は本人なりの鮮やかな感情が煌いているのであろう。だからこそそれを内に留めておけず、誰かにわかってほしいと願うのだ。


ネット上にこれだけ文章があふれるようになったのは何故だろう。どうしてみなこれほどまでに自分を書き散らすのであろう。
もちろん、技術の進歩はあろう。ブログやSNSを始め、表現媒体はどんどん簡単に、手軽になっている。だがそれは需要があってこそでもある。
それは、結局みな一人だからではあるまいか。
日常雑記を記すものは恐らく今日あった出来事を勝手気ままに喋り散らして良い相手を持たないのであろうし、レビューを蓄積していく者は恐らく、自分の考察を最初から最後まで納得のいく形で表現できる場所と相手を他に持たないのである。
それが所謂「現代」特有のものだとは思わない。「現代人は孤独だ」なんてことを言うつもりなど毛頭ない。それらの諸論において対比として一般的にイメージされる「拡大家族の時代」においても、好きなように喋ったり、最後まで聞いてくれる相手がいたかどうかは怪しいものであるし、そう思えば結局は「人間」自体が一人だというありふれた結論に落ち着くのかもしれない。


ただし、こうした欲求が発生したのは「個」が進行した近代後期のことであろうと私は思っている。「自分が」何を思ったのかを重要視し、「一人である」ということを自覚するのは中世の村落社会では困難ではなかろうか。自分でも証拠や確固とした論は持っておらず、巷にある近代論の受け売りに過ぎないので確信は持てないでいるのだが。